三成抄 * 第一章  邂逅 滋賀県の見る | 米原市、彦根市、近江八幡市、愛荘町、豊郷町、甲良町、多賀町の観光情報

見る三成抄 * 第一章  邂逅2020-10-28 490 views

昭和28年(1953)から9期36年間、彦根市長を務めた井伊直愛さんが学習院初等科に通ってらっしゃった頃のことです。おじいさまに連れて来られた関ヶ原で、このようなことを言われたのだとか。

 「おまえが今日こうして暮らしておれるのは、ここでおまえの先祖が一所懸命に働いたからだ」(司馬遼太郎『関ヶ原私観』より)

 そのご先祖というのは、徳川四天王のひとりとしてその名を馳せ、天下分け目の関ヶ原合戦の折には赤甲冑に身を固め、先陣の誉れも高き井伊直政公。JR彦根駅西口ロータリーの騎乗の銅像がその人です。彼の獅子奮迅の働きは、後の関ヶ原合戦図屏風(彦根城博物館所蔵)に描かれる通りで、以降井伊家は『井伊の赤鬼』『井伊の赤備え』と呼ばれるようになります。

  

 関ヶ原合戦の後、石田三成の居城だった佐和山城(彦根市古沢町)には、この井伊直政が城主として入城します。そして、明治に時代を変えるまでのおよそ260年間、井伊家は「鉢植え大名」と呼ばれるような国替えをされることもなく、彦根の町を治めていくのです。

私たち彦根市民は、尊敬と親しみを込めて、お城のお殿様のことを「井伊さん」と呼ぶのですが、その「井伊さん」が治め、発展させてきた彦根の町の礎を築いたのは、石田三成でした。石田三成は、豊臣秀吉の一の家臣として、秀吉亡き後、豊臣の天下を我がものにしようとした徳川家康を敵に回し、国を東西に分けて関ヶ原で戦った戦国武将です。

 井伊家の八代藩主(なお)(のぶ)(1700生-1736没・藩主1714-1735)の時代に編まれた佐和山城の旧記は、井伊家がこの地(彦根)に移ってきた当初、「(石田に対する)善悪の評判」や「関ヶ原」について話すことはご法度だと記しています。旧記は、佐和山城とその周辺の集落のことを語るのにも「密に密に」と釘を刺していました。この旧記が編まれたのは関ケ原合戦から120年余も経ってからのこと。長らく、彦根では石田三成と佐和山城について話すことはできなかったのです。そうして、石田三成は「天下人・徳川家康を敵に回した(ねい)(しん)(主君に()びへつらう悪賢い家臣)」と、捻じ曲げられて伝えられ、それは時代が明治から大正、昭和を経て、平成になるまで、定着した彼のイメージとなったのです。

 石田三成が生まれたのは、永禄3年(1560)、湖北小谷城では、浅井長政が3代目として家督を継いだ年でした。また、この年は織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いが起きた年でもありました。この年から信長の天下取りに向けての戦いの日々が始まるのですが、三成は三英傑(信長・秀吉・家康)が繰り広げる天下取りの最中にこの世に生を受け、戦国時代の終わりを告げる関ヶ原合戦の年に生涯を閉じるのです。

 さて、三成が生まれた坂田郡石田村、現在の長浜市石田町に行くと、今も三成が生まれた生家跡(現在の石田会館)や産湯(うぶゆ)の水を汲んだと伝わる井戸、関ヶ原合戦後に破壊された石田一族の古い墓石(供養塔として整備されている)が遺されています。毎年11月の第一日曜日には、三成と石田一族を供養する『三成祭』が、石田町をあげて執り行われ、今や全国区となった三成ファンで、この晩秋の一日は賑わいを見せます。

 三成が秀吉の家臣となった経緯(いきさつ)にはあまりにも有名な逸話(いつわ)があります。江戸時代に編纂された『武将感状記(ぶしょうかんじょうき)』や『絵本(えほん)太閤記(たいこうき)』には、三成と秀吉との出会いのきっかけとなった3杯のお茶のお話が掲載されています。

 幼い頃、()(きち)と呼ばれていた三成は、「()る寺」で修行をしていました。この時代、跡継ぎでない武家の男児は寺に預けられ僧になるか、あるいはお城のお殿様に見出されて家臣となるか、どちらかが多かったと言います。

『武将感状記』によると、当時14歳だった佐吉は、長浜城の城主秀吉が鷹狩(たかがり)の途中に立ち寄った寺で修行をしていて、喉が渇いたという秀吉に3杯の温度と量を変えたお茶で接待をしたと書かれています。まず最初の1杯目は大きな茶碗にぬるいお茶を、2杯目は少し温度を上げたお茶を茶碗に半分、そして3杯目は熱く()てたお茶を小さな茶碗に入れて秀吉に(きょう)しました。秀吉は2杯目のお茶が出てきた時に佐吉の機微を感じとり、この少年を試してみようと3杯目のお茶をお代わりします。そして、3杯目に供された熱いお茶にこの少年の才知を確信したのです。この逸話の出典は江戸時代の書物ですから、本意は、「三成は戦で手柄を立て出世したのではない。お茶の淹れ方で秀吉に気に入られ出世したのだ」ということが伝えたかったのだと思いますが、秀吉ならば、このような試験をして自らの家臣をスカウトしていたのではないかと想像できるお話です。

 さて、お隣の長浜市と米原市には、この秀吉と三成の出会いの舞台となったお寺がふたつ、名乗りを上げています。『武将感状記』には『或る寺』としか書かれていないのですが、『絵本太閤記』によると、舞台は米原市朝日の「大原(おおはら)観音寺(かんのんじ)」と書かれています。また、『近江(おうみ)輿地(よち)()(りゃく)』(江戸末期に編纂された地誌)には長浜市木之本古橋(ふるはし)法華寺(ほっけじ)塔頭(たっちゅう)三珠院(さんじゅいん)の住職善説(ぜんせつ)は、三成の幼い時の書道の師だったと書かれていますので、佐吉が修行していたのは「法華寺」、つまり、秀吉と出会ったのは「法華寺」であると解釈されています。古橋というのは、三成の母の生まれ故郷であり、関ヶ原合戦後の三成にとって、重要な舞台となる場所です。この法華寺の住職善説も三成の晩年に大きく関わりを持つ人物なのですが、このお話はまた別の回で書くとして、湖北で生まれた少年は、湖北で秀吉と出会い、否が応にも「天下取り」に巻き込まれていきます。秀吉と出会った三成の人生を幸せとするか不幸せとするか・・・それはみなさんの心に委ねることにしましょう。この『三成抄』を最後まで読んでくださったみなさんには「三成の人生は幸せだった」と思ってくださることを願って。

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